遠山病院設立物語

STORY ストーリー

遠山病院設立物語 〜失意からの決意〜

プロローグ

Prologue

1955年(昭和30年)の日本

日本が急激に豊かになっていく時代。 それは、各家庭に「モノ」が行き渡っていく時代であり、明るい電灯がともされた居間で家族そろってテレビを見る、新築の団地に入居する、マイカーを手にいれる、そういう物質的充足が目標となり、その充足が幸福感を満たす、生き生きとした時代であった。ヘレン・ケラー来日、自由民主党結成、トヨタがクラウンを発表。

三重大学内科教授
遠山豪先生の活躍

若手三重大学内科教授であった遠山豪先生(以後 遠山と略称)は、日夜熱心に研究活動に没頭していた。これからの日本の医療のために役立つことをしたい。その気持が遠山の原動力であった。
患者を診ながら研究を重ねることが遠山の信条であった。
そんな遠山の努力が実を結び結果が出てきた。
徐々に遠山の実績が全国に広がることとなった。

失意からの決意

遠山は、新進気鋭であったため学会の重鎮たちから、煙たがられ、研究活動を無理やり阻止された。
大学病院に落胆した遠山は、 「親身な地域医療を提供しつつも研究活動は出来る」との強い思いから教授の職を辞して、教え子5名とともに理想の医療を目指して病院設立を決意した。

病院設立資金がない

病院設立を決意したが、当時の遠山には、病院設立にかかる莫大な費用はなかった。地元大学病院と反目した遠山には、どの金融機関も融資することはなく、病院設立は不可能に思われた。

遠山達が希望を失いかけたとき、遠山の思いを知り、津市の地元有志が出資を申し出てくれた。

病院建設開始 1955年(昭和30年)

当時の病院は、木造建築・ 遠山と教え子5名との夢の病院が形になってきた。

病院 開院

地元の有志、職員、地域の方の協力で遠山の理想の病院が開院した。
助けてくれた地元の方への恩返しとして、遠山をはじめ教え子5名、職員一同は、休みなく地元の方への治療を行なった。

遠山先生と職員、家族

昭和 30年、新進気鋭の若手三重大学内科教授であった遠山豪先生が現職を辞して、教え子 5人とともに理想の医療を目指して50床から設立したのが遠山病院です。
山崎豊子の「白い巨塔」が書かれる前の時代に、学会の重鎮から研究活動を理不尽に阻止されたのがきっかけです。
遠山先生の回顧録には設立に至るまでの多くの苦労が記されていますが、中でも「私は自分で信じられぬ程の後援者のおかげで自分が発展さすべき拠点となる病院を持つことができました。これを守り育てて自由に診療も研究もできる城を築きたいという夢を描き、そのためには無理をして図書室をつくり専門雑誌を購入したり、将来の実験室にしようと検査室を作ったりしていました。
早朝から午後は遅くまで外来患者の診療を、その後に入院患者の回診を行うなど終日働き、遠隔の地からの往診依頼も休日を利用して応じるよう努力しました。
これらの努力は後援者に報いたいとの一心で、まず自分が率先して働くことから始める積もりでした。」との言葉に遠山病院創設に込められた想いを感じ取ることができます。
遠山病院が長く地域から「遠山さん」として親しまれてきたのも、良質な医療を患者に届けるという信念を貫いた遠山先生の気骨稜々なお人柄が、遠山病院のDNAとして広くスタッフに受け継がれているからに違いありません。

<略歴>

昭和10年 京都帝国大学医学部卒業
昭和23年 三重県立医科大学内科教授
昭和30年 医療法人同心会遠山病院院長
昭和35年 医療法人同心会遠山病院理事長
昭和44年 三重県看護職員確保対策協議会会長
昭和47年 社団法人全日本病院協会副会長
社団法人三重県病院協会副理事長
昭和50年 社団法人日本病院会副会長
昭和52年 津ロータリークラブ会長
昭和55年 三重県知事表彰(地域での公衆衛生及び県民の健康づくりに貢献)
昭和56年 三重県病院協会理事長
昭和56年 叙勲 勲四等瑞宝章
昭和58年 第19回県民功労者として表彰
昭和59年 第35回日本病院学会学会長